貞福寺

貞 福 寺 創建 1394年

真言宗 しんごんしゅう

豊山派 ぶざんは

愛宕山 あたごさん

地蔵院 じぞういん

貞福寺 じょうふくじ

貞福寺縁起

千葉県八千代市吉橋にある真言宗寺院、奈良県大和長谷寺を本山と仰ぐ真言宗豊山派の古刹である。

1394年(応永元年)に中成和尚が地蔵院と称し、現在の地より東に創建する。

境内は吉橋城の一角にあり、高城伊勢守胤貞が吉橋城と周辺を治めていた。

吉橋城は、1536年(天文5年)に落城するが、家臣達が土着し、山号を愛宕山、寺号を貞福寺と定め、現在の地に移され、吉橋城主が信仰する「血流地蔵尊」を本尊とした。

「血流地蔵尊」は、吉橋城主の身代わりとなり、血を流して倒れ、城主を逃したことから身代わり地蔵として地域の方々の信仰も厚く、弘法大師が彫った伝説を持つ寺宝の仏さまである。

貞福寺初代住職は吉橋城最後の殿様の嫡男であり、その後も高城家が住職を歴任した。

江戸期には、京都伏見の世界遺産「醍醐寺」を大本寺、佐倉千手院を中本寺とし、戦後、本末関係が解かれるまで近隣に13ヶ寺の末寺を擁す小本寺として、その名を馳せた。

1807年(文化4年)に存秀和尚が「吉橋大師」の前身となる下総四郡八十八ヶ所霊場を開設する。

「吉橋大師」は、弘法大師と共に生きる民間信仰であり、貞福寺を総本山とした「お遍路さん」である。

1876年(明治9年)貞福寺にて塙小学校が開校する。

1883年(明治16年)火災により焼失するが、「血流地蔵尊」は難を逃れた。

現在の本堂は再建後、1994年(平成4年)に開山600年の記念事業として大改修された。

八千代八福神

七福よりも さらなる福あり

八千代の八にあやかり吉祥天を加え、さらなる福を授かる八千代八福神

八千代八福神を参拝すると、八つの災難が除かれ、八つの幸福が訪れる。

貞福寺は八福神唯一の日本の神様「エビス様」をお祀りする。

エビス様は商売繁盛・五穀豊穣・学業成就・開運招福・交通安全・大漁満足などなど、盛大にご利益をもたらす大変ありがたい幸福の神様である。

10月はエビス様の月

10月は神無月と呼ばれ、全国の神様が島根県の出雲大社に集まる月。出雲以外の地では神様が不在となる。この時期、五穀豊穣を祈願する忙しいエビス様は出雲に行けず、留守番をすることから10月は全国各地でエビス様のお祭りが行われる。

吉橋大師

1823年(文政6年)開創

1807年(文化4年)に貞福寺第38世住職「存秀和尚」によって、吉橋大師の前身となる下総大師(下総四郡八十八ヶ所霊場)が開設される。

下総大師とは、八千代市・船橋市・習志野市・鎌ヶ谷市・白井市・市川市・柏市・松戸市にまたがる広範囲な霊場であり、後の吉橋大師・葛飾大師・東葛印旛大師の元となった「お遍路さん」である。

四郡とは、千葉郡・葛飾郡・相馬郡・印旛郡であり、霊場巡礼が盛んな地域であった。

真言宗寺院の興隆を目的として始まったが、当時は全国各地で農民一揆が発生しており、一揆を懸念さすほどの爆発的な広がりから、幕府の徒党禁止令により分割を強いられたと伝わっている。

吉橋大師は、八千代市・船橋市・習志野市・鎌ヶ谷市・白井市の五市からなり、八千代市吉橋を中心とする周辺住民によって構成され、毎年、春彼岸・秋彼岸の時期に数日かけて巡礼をした。その際、一度使用した行程を使わないことから毎回コースが異なった。

明治に入ると、「お遍路さん」を楽しむばかりではなく、札所に絵馬などの奉納が盛んに行われるようになり、昭和には巡礼者が500名を超え、戦後には1000名を超え、吉橋大師の最盛期を迎えることとなる。

平成17年には吉橋大師開設200周年を記念した記念遍路が開催され、延べ500人を超える「お遍路さん」となった。総距離およそ100㎞

有りがたや 
高野の山の岩陰に 
大師はいまだ在(おわ)しますなる


あなうれし 
行くも帰るもとどまるも 
我は大師と二人連れなり

吉橋城落城悲話

北条軍が関東一円の城を次から次へと攻めていた戦国時代。

この吉橋の地には、元旦に家の主が雑煮を振る舞う習慣があった。

1536年(天文5年)の元旦、この年も城主は雑煮の準備を始める。

早朝、家来に松明を持たせ、井戸に水を汲みに向かった。

松明の明かりをみつけた敵の北条軍。

明かりを目印に一斉攻撃にあった城主たち。

あえなく、吉橋城は落城となった。

今日でも吉橋地区には正月の朝には井戸の水を汲まない風習が残る。

〒276-0047
千葉県八千代市吉橋804
貞福寺
047-450-5956
公式HP